時々、過去に読んだことを忘れて、もう一回、その本を買ってしまうことがある。
昨日も、ある本のKindle版を買って読み始めたら「……なんかどこかで読んだような……」という気になってきて、おそるおそる本の小山をかきわけたら、果たして、あった。紙で買っていた。われながらアホらしい。
似たような話で、どの本を読んだかわからなくなってしまうこともある。個人的に、エンターテインメント系の本は、わりと早めに処分してしまう。そうなると、もう何を読んだか、逆にどの本が未読なのか、よくわからなくなる。
例えば、ある時に道尾秀介のミステリに驚いて、何冊か読む。しばらく、例えば3年ぐらいたって、また道尾秀介を読もうとした時には、もう既読の本は処分してある。となると、その3年前にどの本を読んだのかあいまいになる。メモでも残していればいいが、それほどマメではない。書店で棚を眺めても、あらすじを読んでみても、定かでない。既に読んだものを買ってしまうのはいやだ。……結果、どの本を新たに買ったらいいのかわからない。買わない。面倒になってしまう。
Kindleならば、そんなことはありえない。一度買った本なら、「この本は○年○月に購入」と大きく表示してくれる(紙も、Amazonで買ったのなら表示してくれるが、書店で買うことが多い)。どんなに昔に読んだ本でも、検索してすぐに引きだせる。その他にも、Kindleはスペースをとらないし、本の中身も検索できるし、何冊でも持ち運べるし……、といろいろメリットはある。
個人的な電子書籍、Kindleの経験
が、やっぱり読書の中心は紙。フィジカルな本だったりする。
別に本そのものに偏愛があるというわけではない。ビブリオマニアというか、何かモノとして愛したりコレクションしたり、という傾向は薄い。でも、紙で読みたい。
紙にする主な理由は、Kindleで読んでも、なんだかすっきりしないフィーリングがあること。理解度や没入度が低いような感触がある。これはいろいろなところでいろいろな人が言っているようで、確かに自分もそう思う。
ただ、一口にKindleと言っても、3種類ある。
ひとつは、スマートフォンやタブレットのKindleアプリ。Amazon Fireもここに入れられる。
もうひとつは、専用のKindleリーダー。
さらに、MacやWindowsのKindleアプリ。
どれも使っているが、理解度や没入度という点では、専用リーダーがけっこういい。これは、「それ以外できない」からのように思う。ゲームもブラウジングもできない。天気予報すら見られない。つまり、気が散らない。ハードウェアとしても読むことのみが存在理由で、それを手に持つということで、読書スイッチが入るのかもしれない。そんな、極めて個人的、心理的な側面。
ただ、アンダーラインを引いたり書き込みをしたりするのはかなりかったるい。動作が遅いし、正確じゃない。ゆえに、基本的に、軽いモノを読む時に使う。
スマートフォンのKindleは、個人的には画面小さすぎ。普通のレイアウトのマンガをiPhoneで読む人がいるようだが、ちょっとわからない世界。どうやら自分にとっては、ある程度の一覧性が必要なようだ。
iPadのKindleはまあまあ使っているが、マンガとか、固定レイアウトの本の時が中心。専用リーダーのマルジナリアがしにくい欠点がかなり軽減されるが、一方で目が疲れやすいように感じている。
MacのKindleアプリは、雑誌がいい。大きな画面に見開きでドンと写すと、文字はもちろんだけど写真も味わえる。iPadでもいいが、個人的には文字が小さくなることが多く、快適ではない(老眼がきている)。
理解度が下がるのは個人的なことなのか? 若い人はどうなのか?
理解度という側面に戻れば、やはりいろいろな人が調べている。論文みたいなものも、検索するといろいろ出てくる。メディアでも紹介してくれている。書籍もある。
▾The Reading Brain in the Digital Age: The Science of Paper versus Screens - Scientific American
▾紙の本が電子書籍よりも優れていることを示す数々の研究報告 - GIGAZINE (上の記事の要約・翻訳)
▾デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳 :「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる:メアリアン・ウルフ
▾デジタルで変わる子どもたち ――学習・言語能力の現在と未来 (ちくま新書):バトラー 後藤 裕子
一般的にも、スクリーンで読むと、やはり理解度が落ちる傾向があるようだ。若い人も含め。
ヒトはフィジカルなモノを扱うようにできている。物質の何かを認識するようにできている。例えば「この本のこの辺に書いてあった」というのは物質世界の位置情報で、それは脳の根本的な機能を使って認識している。だから皆自然に覚えている。紙の本を読むときはそうした物質の情報も使って理解している。それがないスクリーンは、ちょっと脳への負担が大きい。
ただ、本当のデジタルネイティブ、つまり生まれた時からスクリーンで読んだ子どもが成長したときに、どんな脳みそになっているかは……、まだこれから。
また、スクリーンならでは、デジタル機器ならではの「読み」を生かすのも必要なのでは?という視点もある。どちらもうまく扱える「バイリテラシー脳」が必要だというのは、上記のメリアン・ウルフの提案。さらにサイエンティフィック・アメリカンの記事では、「新しいかたちの読み」があってもいいのでは、という結句になっているようだ(英語は苦手orz 誤読していなければ)。
じゃあどうする……と言ってもねえ
こうした経験や研究から何を見いだすか?
……まあ、いろいろやってみる、としか言えないかもしれない。自分なりの快適なスタイルを見いだす遊び、と捉えている。例えば、未だ試してもいないが、オーディオブック的なものなら目が悪くなっても読めるかもしれない。
そもそも、ヒトが読書するようになって3,000年とか。普通の人が読む生活をするようになって300年とかなんとか。それ以前の長い時間からすれば、一瞬に過ぎない。たまたま元からあった脳のある機能を流用して、読書に適応しているに過ぎない。
だとするならば、どんな読み方も、たまたまそうなったに過ぎない。……というのは言い過ぎかもしれないが、あまり従来のスタイルに固執する理由もないように思える。
もちろん、数百年、あるいは数千年の「知の探求」の歴史を軽んずるわけでもない。今の形にはそれなりの実証的メリットがある。知恵の結晶と言ってもいい。それはそれとして享受する。たぶんこれからも、自分の軸足はそこにある。
しかし……、問題は、自分のような、昔ながらのスタイルが染みついたタイプが、新しい世界に適応できるかどうかということ。AIの進展なども含めて、さて、今の中年ご同輩たちはどうなるか。自分などは、冒頭に書いた通り、どの本を買ったのかも忘れてしまうボヤボヤっぷり。果たして。
さらにしかし……、今は時代の最先端の若い人たちも、特にAIのことを考えると、あっという間に旧世代の価値観、認知、世界観 etc. になってしまうのかもしれない、とも思う。もしかすると、100年後に振り返ってみても、なかなかすごい時代なのかもしれない。
追記)
養老孟司氏が興味深いことを言っていたのを思い出した。
曰く、日本語の読みは特殊、なのだとか。
かなは音。漢字は絵。脳的に言うと、処理する部分が違うらしい。こういう言語はかなり珍しい。結果として、日本語を読む人は、脳に独特のクセを付けている。
そしてマンガの構造は、絵と吹き出し。日本語の書き言葉と同じ原理でできている。(本来は「音訓読み」の話だけど、ちょっと意訳)
……これがどういう意味を持つのかはわからないけれども、読むとは、ヒトとは、自分とは、と考える時の何かのヒントになるかもしれない、と感じている。