みなさん、生活とか仕事の仕方とかをなにか少しいい感じにしよう思った時、どんな風にしているのだろうか。
自分の場合は、時々、仕事の仕方の見直し期間を設けたりする。
と言ってもごたいそうな話ではなくて、単に少しスピードを緩めて、コレでいいのか自問しながら進める、ぐらいの話。メタ認知というヤツをちょいちょい挟み込みながらやる、ぐらいの話。昔から習慣的に、そんなことをしている。
近頃、ふんわりとそういう期間を持っていた。その結果、どうやら睡眠が足りてないことに気付いた。少し長めに眠るようにしたら、いろいろ改善した。それまでMP(せいしんりょく)が50パーぐらいでやっていたとしたら、今は80パーぐらい。少し元気になった。
……なんというか、バカバカしい。あまりにも基礎的すぎる。ファンダメンタルすぎる。そんなことにも気づけず、うだうだと暮らしていたとは、我ながらアホやな、と思う。
言い訳をすれば、加齢や日々の体調の変動、あるいは聞きかじった知識、例えば「歳をとると自然に睡眠時間は短くなる」「ヒトにはクロノタイプというものがあって、得意な時間帯と不得意な時間帯がある」なんていう話にまどわされ、その結果、自分というものがわからなくなっていたようだ。
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こんな感じで、「結局、重要なことは足下に埋もれている」という現象をちょいちょい経験する。言い方は大げさだけれども。
正解を探してあれこれ動き回る。読んだり話したり、うじうじと考え込んだりする。睡眠、のような基礎的 or 小さい課題の時もあれば、自分にとっては重要な問題の時もある。他人に話すと「なんでそんなことを」と笑われるようなことだったりもする。でもしかたがない。うだうだ過ごして、何度も繰り返し挑んで、なかなか「わかった」と手応えを感じられない。
しかし、あるとき、「あ、これかも」ということに思い至る。直観的に、正解だという手応えを感じる。手応え、としか言いようがない。なぜそれが正解なのか、理屈ではなくて「なんかわかる」。おそらくは無意識的なもの。
そしてその正解のようなものは、テーマを考え始めたときに、始めの時点ですでにふんわりと視野に入っていたことだったりする。「なんだ、これでよかったのか……」となる。
この場合は、生活の土台中の土台である睡眠に課題があった。本当に卑近な例で申し訳ない。ので少しでもマシな結論を挙げるとすれば、↓↓↓。
「あ、結局、自分の強みでしか、人様のお役に立つことはできないんだな」
「なんだかんだ言っても、環世界に動かされているな」
「自分はあれこれ手を出さずに、ひとつに集中しないとダメなタイプなんだな」
……とかなんとか、悩んだとしても、重要なことは、すでに知っていることかもしれない。
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仏教の世界の「悟り」にも、同じようなメカニズムがあるらしい。それを表したのが、「等覚一転名字妙覚」という一文。『法華経』にあるらしい。誰もが悟りを目指して進んでいくが、悟りはその歩みの延長線上にあるのではなく、実は歩き始めた地点の足下にある。そんな意味だと、エライ人が教えてくれた。
悟りと、自分のアホな気づきを一緒にするのはよくないだろうけど、しかし、これは何かを探求する時の普遍的なプロセスなのかもしれない、とも思える。何かを求めたとして、一直線に進んで行けるわけではない。あさっての方向に進んだり、ぐるぐるしたり、迷ったりするかもしれない。しかし、それもまた道。
おそらくアタマのいい人はそんなことにはならないのだろう。仏教で言えば空海なんかは、そういう人だったのかもしれない。あるいは運のいい人は、そもそもその正解の中に自然に居続けたりもしているのかもしれない。そんな才能にも幸運にも恵まれなかった自分としては、コツコツやっていくしかない。みたいな。